ひつじ泥棒2

Who stole my sheep?

旧日本人居留地の多倫路文化名人街|おさんぽ上海

 

上海に残るレトロな洋館や石畳の街は、かつて「租界」と呼ばれたエリアに多く残っています。租界とは、19世紀半ばにアヘン戦争でイギリスに敗れた清(現在の中国)とイギリスとの間で結ばれた南京条約において建設されたエリアで、半植民地のようなもの。

一方的な不平等条約の一つに上海などの開港があり、いくつかの国が「租界」と言われる治外法権地区を建設しました。大きくわけると、イギリスやアメリカ、そして日本などの共同租界と、フランス租界のふたつがあります。

ここ最近何度か書いている虹口(ホンコウ)区も上海開港時につくられた租界エリアで、ガイドブックなどでは日本人租界と書かれているものありますが、正しくは各国共同租界の一部の日本人居住区です。

当時は日本人学校もあり、病院、商店などもあり。いわるゆ外国にある日本、パスポートなしいける外国でした。租界が完全になくなるのは建設からおよそ100年後の第二次大戦での日本の敗戦のとき。

戦勝国としての歴史も、敗戦国としての歴史も、戦争ってなにもいいことないと思っている人の方が多いはずなのに、戦争がなくならないのは・・とうつうつしていまいます。

コロナ禍で日本にいた2年間に、上海の租界が舞台になっていたり、租界そのものをテーマにした小説を何冊か読んだし、いよいよ行ってみようと思っていた虹口エリア。

この日に寄ったのは魯迅や、魯迅の友人でもある日本人の内山完造の運営していた書店跡などもある、多倫路(ドゥオルンルー)の「多倫路文化名人街」という1キロほどの通りを歩いてきました。

ここからスタート

中に入りたい

けれど使用されている感はなく

隙間からのぞいてみる

通りは観光用に整備されている

骨董品屋さんや、海軍(だったかな)の病院、古いアパートなどが続く石畳

骨董品屋さんみたい

超中国〜

別の骨董品屋さん

マオ様はデフォルトかな

「永安里」1925-45に建築されたアパートと住宅地

入り口を少しはいったところ

小区の中の別の通り。もちろん現役。こういうところを見るたびに、ロックダウンの期間ほんと大変だったろうなあと思ってしまう。

右手が永安里のアパート

ここがゴール、南側の門

一見素敵なカフェなんだけど、近所の(おせじにも素敵系ではない)おじさんがお茶をしていたり、石畳のムードある通りでバトミントンに興じるおじさんがいたり、その横の映えスポットでポーズを決め倒している若者がいたり、魯迅や仲間たちの銅像に一緒にまざってなんとかラテを飲むギャルとか、水晶のアクセサリーがある宝石店や、ミュージアム、歴史建造物、いろいろ。

そんな様子を眺めながらフラフラと歩いて、通りの南の反対側にゴール。今は綺麗に整備された通りですが、のんびりとした静かな週末の午後に歩いていると、当時の生活がちょこちょこと垣間見えるようで、歴史の大渦の中の日常を感じる通りでした。