ひつじ泥棒2

Who stole my sheep?

宗教2世とか、コミューンとか—晴耕雨読

 

読んでいるブログで紹介されていた今村夏子の小説『星の子』を読みました。いわゆる宗教2世と言われる、親が宗教に入っている子どもが主人公のお話です。

レビューの面白さに興味をひかれたのと、この1年ほどやたらとあちこちで「星の子」と名のつくグループなどを見かけることが多くて気になっていました。(先日もかき氷を食べ終え外に出てたら星の子なんとかというグループのチラシが電信柱に貼られていた)

いわゆる宗教2世の女の子の話ですが、地下に閉じ込められて洗脳したりするホラー系のヘビーな宗教ではなく、でも同じクラスにいたら違いはわかるだろうなという感じ。きっとこういう宗教2世の子どもたちって結構いるんだろうなと思いながら読んでいました。そして同じ環境で育っても、その子どもによって受け入れ方(拒み方も)はまったく違うのだろうな、宗教でも、宗教じゃなくても。

星の子で宗教2世のことが気になって、次に手に取ったのは村上春樹の小説『1Q84』です。宗教そのものの物語ではないのですが、宗教2世も登場しますし、最初から最後までずっと宗教がバックグラウンドミュージックのように小さな音で、時に大きな音でかかっているような小説です。

新宗教新興宗教と呼ばれるものってどのくらいあるのだろうとウィキペディアを開いてみると、ものすごい数の団体があり数えるのをやめました。中には「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」という冗談のような団体までありました。お祈りの時には「アーメン」ではなく「ラーメン」と言うそうです。すごく気にはなるのですが、本日の主題から遠く離れていきますので、これはここまでにしておきます。

十数年振りに読んだ1Q84、懐かしいけれど新鮮な読後感でした。

1Q84のBook1を読んでいるときから、もう次に読みたくてうずうずと気になり始めたのが「コミューン」についてです。宗教など(宗教ではなくとも)一定の思想を共有して、生活を共にする共同体の「コミューン」。

二十歳を過ぎたばかりの頃に友だちから、<宗教のような宗教ではないようなコミューンに入った友だちの話>というのを聞いたことがあり、1Q84を読みながら、そのとあるコミューンに移り住んだ家族(当時、夫婦と1歳くらいの子どもの3人家族)のことを思い出していました。あの家族は今どうしているんだろう。あの子は何歳になったんだろう。

コニューンに生きるというこが気になり、次に読んだのが原武史のノンフィクション『滝山コミューン九七四』。タイトルだけで選んだので、読もうと思っていたタイプとはまったく違う話でした。宗教ではなく、70年代の東京都東久留米市の滝山団地、団地住人の子どもの為に作られた小学校という特殊とは言えない環境の中で母親、教師、子どもたちの間に作られた集団思想や結果としてある種宗教のようなコミューンのことを、作者が小学校を卒業して30年後に書いたドキュメンタリーです。

 

日本では憲法で保障される信教の自由ですが、子どもにとっては選択できるものではなく、生まれついた環境そのものが生きる場所。それを言ったら、生まれた地域や国によって、宗教も宗教のようなものも、決まってしまうこともあります。子どもは、成長して自分で判断ができるようになるまではなんとかそこで生き延びるしかないのでしょうか。

信仰心(宗教じゃなくとも)のある人は、生きていくうえで心の拠り所があるわけで、自分自身の選んだものであれば、それが良いとか悪いとかではないと思います。でも、そこにたまたま生まれてしまった子どもとなると簡単にコメントできない気持ちになります。

その拠り所が、宗教だったり、コミュニティーや、政党や、所属する学校や団体、スピリチュアル的なもの、場合によっては応援するサッカーチームだって信仰の対象になり得ます(アルゼンチンとか!)

そうなると宗教とカルト、教えと洗脳の違いってどこで線を引くんだろう。自分が子どもでまだ線を引けないとすれば、誰が引いてくれるんだろう。

 

ドミノのように次々と気になるものがバタバタとやってきて大変。無限ループにはまりそうですが、 梅雨だし、コロナ禍だし、晴耕雨読の生活なのでいいですかね。